歌川広重の東海道五十三次は、お茶漬けのりのおまけになって広く知られています。実は18世紀の初めころから全国的な旅行ブームが起き、名所絵が盛んに作られるようになりました。中でも東海道五十三次の浮世絵は人気が高く、数十種類も作られています。「役者と歩く東海道五十三次」はその一つであり、役者の上半身の背後に五十三次の各駅が紹介されています。いわば役者絵と名所絵のコラボ商品です。実は、芸能人が紹介する旅番組の元祖ともいうべき作品なのです。

東海道五十三次の内 日本橋 三代歌川豊国画 1852年 松魚売
日本橋は、江戸(現在の東京)の中心に位置し、重要な商業と交通の拠点でした。この橋は、東海道の起点としても知られ、多くの人々や物資が行き交う場所でした。背景の日本橋周辺にも肩に竿をかけた俸手振り(ぼてふり)が行きかい、経済活動が活発に行われていました。

同 品川駅 三代歌川豊国画 1852年 幡随院長兵衛
江戸時代の品川宿は、現在の品川駅付近にありました。すぐ横に海が見えるように、現在は埋め立てられて海まで1km弱あります。幡随院長兵衛は、江戸時代前期の町人町奴の頭領で、日本侠客の元祖ともいわれています。『極付幡随長兵衛』という歌舞伎題材となっています。この鉤鼻は松本幸四郎ですかね。

  

同 川崎駅 三代歌川豊国画 1852年 白井権八
渡し船で対岸へ渡っています。東海道には無数の川があります。その多くには渡し船が使われていました。橋を架ければいいのに。と思いますが、江戸幕府は、多量の軍隊を江戸に送り込める橋を架けることを警戒していたため、橋のない川も多くあったのです。

同 神奈川 三代歌川豊国画 1852年 渡守頓兵衛
悪役はかくあるべし、という顔をしてます。この渡守頓兵衛は、主君を罠にはめて殺した逆賊として有名です。詳しくは「神霊矢口渡」をご覧ください。


  

同 程ヶ谷 三代歌川豊国画 1852年 おかる
程ヶ谷のおかると次の戸塚の早野甚平(寛平)は、忠臣蔵の恋仲です。塩冶判官(えんやはんがん)家臣だった二人は、主君刃傷の際にデート中だったことを悔やんで死のうとする勘平を「仇討ちに参加して」とのおかるの願いに思いとどまります。お軽が遊廓に身を売り健気に尽すが、ふとした誤解から追いつめられた勘平は切腹し果てます。

同 戸塚 三代歌川豊国画 1852年 早野甚平
黒い着物の柄に注目です。黒い着物に灰色の模様が浮かび上がって見えます。これは艶刷り(つやずり)という技法で、黒色の墨に含まれる膠(にかわ)を擦っててからせたものです。斎藤主催の浮世絵勉強会に参加して頂けると、お見せできます。

同 藤沢 三代歌川豊国画 1852年 小栗判官
藤沢といえば、奥に見えるのは江の島です。

同 平塚 三代歌川豊国画 1852年 万長娘おこま

同 大磯 三代歌川豊国画 1852年 とら
大磯の遊女。虎御前とも呼ばれた。

同 小田原 三代歌川豊国画 1852年 飯沼勝五郎
妻とともに、両親と兄の敵討ちを行った人物。その表情には苦難を乗り越えての仇討ちだった面影があります。

WEB展覧会「役者と旅する東海道五十三次」は如何だったでしょうか?
浮世絵は、商業絵画です。売れなければ廃刊になってしまう運命にあります。今の漫画や雑誌、もしくはテレビドラマのようなものです。1800年代頃からブームとなった一般庶民の旅に合わせて数多く発刊された名所シリーズも、時の変化を受けない名所・旧跡に発刊数も減りジリ貧になっていました。そこで考えられたのが役者を案内役にリクルートすることです。これまで役者絵は、歌舞伎の興行に合わせて発刊されていましたが、旅案内にリクルートすることで、興行に左右されずに発刊することが可能になり、また客筋も、旅の名所めぐりを楽しむものと、役者のファンのダブルにすることで、購買数を確保することが可能になりました。考えたのは、三代歌川豊国です。彼は、アイデアマンであり、江戸時代の電通のような人でした。京都まではまだ遠く、ぼちぼち連載していく予定です。